アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第24回

第24回

第6章「アース」への途 その3

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 昭和4年(1929)、次男英次郎は四国三野家次女末子と結婚し、薬業視察の為世界一周の旅行に上がった。

 

 

 半歳に亘る旅行を終えて帰朝した彼は、家庭衛生に意を用い、欧米諸国の視察により得た知識を以て家庭用殺虫剤の製造研究に着手したのである。

 

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日アマゾンから書籍とキンドル版でで発売されました。今後はそちらでご覧ください(企画構成 東京都 矢竹考司)

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第23回

第23回

第6章「アース」への途 その2

 百合子夫人は、当時のことを回想して筆者にこう語ってくれた。

「その頃、自動車もなく、ここまでは船に乗って来ました。

 まだ、ほんとに淋しいところでした。

 私は幸いミシンを持っていたので、炭酸マグネシヤの袋をミシンで縫うことを始め

ました。それまでは手縫いだったのです。

 朝から晩までミシン掛で、とても多忙でした」

 

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版

第22回

第6章 「アース」への途 その1

 世界に誇る優良炭酸マグネシヤの完成と共に秀蔵伝は、半生の悪戦苦闘の歴史から順風満帆の極めて快適な人生航海に変わってゆくのである。

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 ただ、秀蔵は決して烈々たる闘魂を如何なる場合にも失うことはない。

  それは、私益追及から来る企業欲ではない。ただ、働くことだ。ひたむきな事業の前進である。よりよいものの創作である。彼は、小成に安んずることが出来ない性質であった。真に、いつの日も、「撃ちてし止まん」の精神である。

 

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第21回

第21回

第5章 徳孤ならず  その4

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  木村翁は御家族の慶事の為に不在で、御令息木村利一氏が、工場を案内して下さった。

 

 ここにも驚いたことがあった。炭酸マグネシヤ製造に於いて、世界無比を誇るこの大工場に事務員二人ということである。如何に、其の組織が整然としているかが、この一事をもってしても想像できる。

 

 先ず、煙突のある汽缶室へ入っていった。室内は、水蒸気が立ち込めている。木村氏は、黒眼鏡を外してふいた。田熊翁は、如何にも嬉しそうに中央の汽缶の前に立った。

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出典 『超科学発明家日本の田熊翁』都立図書館蔵

 

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第20回

第20回

第5章 徳孤ならず  その3

 

  田熊氏の半生は、全く悲劇の連続であった。事業の失敗の為一家は離散し、一度は債鬼を逃れるるために朝鮮に逃れ、大陸に渡り、途中思案にあまって月明の玄海灘へ身を投じようとさえした。

 しかし、天は彼を見捨てなかった。海に映った月の光を見て何ともいえぬ霊感にうたれ、『失敗して逃げるようでは駄目だ。失敗の中に猛然と立ち上がって、突進するところに成功がある。』という悟りを見出した。

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第19回

第19回

第5章 徳孤ならず  その2

 

 炭酸マグネシヤを製造するに当たり、是が主要配合剤として「曹達灰」が必要である。この曹達灰は、従来英国ブランナーモンド会社から輸入を仰いでいた。当時の外国会社の常として、我国業者に対して取り引きに関しても非常な横暴な態度をしていた。

 わが国内に於いても、二三この製造に当たっていたものが有ったが、その品質は到底舶来品に及ぶべくもなかった。

 

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版で発売されます。今後はそちらでご覧ください (企画 東京都 矢竹考司)

 


 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第18回

第18回

第5章 徳孤ならず その1

「地球印」を筆頭に、「銀世界印」「世界印」「月世界印」「化学印」等の炭酸マグネシヤが用途にあわせて次々と製造せられた。これらの木村製炭酸マグネシヤは、純良な品質によって、日に日に内外共にその名声を高めるに至った。

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 「地球印」の特徴は、優良なる透明ゴム製品の製造に欠くべからざる配合剤としての定評があった。

 事実透明ゴム製品を作る為には、どうしても「地球印」炭酸マグネシヤの力を借りねばよい効果を挙げ得なかった。「地球印」を使用することによってのみ、ゴムのもっとも欠点とする亀裂の完全なる防止を成し得たのだ。

 ゴム製品は、この亀裂の防止によって、耐久力は強靭となり永年の使用に耐えることが出来るのである。実に地球印は、理想的な配合剤のみならず、製造工程に於いても時間的に経済であると言う特徴も兼備していた。

 かくて、全国一流のゴム製造業者は、木村製薬所の炭酸マグネシヤを競って使用することになったのである。

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第17回

17回

第4章 試練に耐えて その4

 

 人の和の力こそ、大いなる成功の要素である。 完成を、神に感謝する秀蔵にもまして喜んだのは,小林富次郎氏であった。

 秀蔵の熱意に動かされ,炭酸マグネシヤの製造を依頼したものの、幾度か失敗を繰り返す秀蔵を、小林氏は全く気の毒で見ていられなかった。

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 いそいそと、新しい製品を試験の為に持って上京される姿! 

 そして、失望と落胆とに悄然として帰って行く後姿。しかし、秀蔵は何時でも自棄に陥るようなことはなかった。

  『今度こそ、今度こそ』

 彼は帰りの汽車の中では、もう次の創意工夫をこらしていたのだ

 

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 大正10年開通した、赤穂鉄道時代の坂越駅

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アース製薬創業者 『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第16回

第16回

第4章 試練に耐えて その3

 

 流石の秀蔵も今度ばかりは力を落とした。そして、今日まで歩いて来た茨の路を振り返るとはなしに思い出した。実父との生別、丁稚の頃の苦しさ、やさしき母の顔、小寺氏の親切、孤軍奮闘の西野田時代。

 

 しかし、彼は今日まで如何なる困難に出会っても、必ずこれを征服して来た。

 見渡せば渺々(びょうびょう)たる瀬戸内海は眼下に静かに眠って、月明かりに遠く家島も霞んで見える。秀蔵は心の中に少しずつ平静を取り戻した。

 

『私はまだ弱すぎる。こんなことで挫折しては男とはなれぬ。もっと頑張ろう。水が揚がるまで、ここで頑張り続けよう』

 

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 その時である。海岸に歓声が起こった。

『あっ!水があがった。水があがった』

 

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第15回

第15回

  • 第4章 試練に耐えて その2

 唯一の貯水池を失っては、工場は全く心臓をとられた身体と同じことである。

しかも資金難の中から、漸く作られた貯水池である。

 炭酸マグネシヤの製造には、水は一刻も欠くことが出来ない。

僅か五百斤(300キログラム)を製造するのに百石(18.000リットル)に近い水が必要なのである。然しこれほど大きな打撃の中にあっても、秀蔵は狼狽することがなかった。

 

『自分がうろたえたら工員達はどうなるのか』

  彼は生まれながらにして人に将たるの器を備えていた。戦争で兵が自軍の敗色を敏感に感じるのは指揮者の態度によるのだ。

 

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁の伝記』 ブログ版 第14回

 第14回ー

  • 第4章 試練に耐えて その1

 

 工員たちの申出は、自分達の給料を半減しても工場の経営の足しにして頂きたいというのである。自分達が栄えるのも亡びるのも、皆主人一家と運命を共にしたいというのである。給与は半分になっても、微力ながら以前に倍する協力は続けるというのである。

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 しばし無言で聞いていた秀蔵は、感激に涙を湛えながら口をひらいた。

 

 『有難う。出来るだけは皆に苦しい経済を知らせまいと苦心していたのだが、知られた以上やむを得ない。皆の想像通り、私は全く非常に苦しい立場に立っている。

 しかし私も男だ。立派に切り拓く道は講じよう。皆に、そのような心配をかけては相すまない。皆の申出は身にしみてうれしい。この志だけで、自分は一層勇気を奮い起こさせられる。苦しいであろうがもう一苦労、私と一緒に頑張ってくれないか。私はうれしい。皆の温かい心がうれしい』

 

 夫人あさ子も傍に感激にうなだれて、目頭をおさえた。

 

 『さあ、ともかくもう一度元気を出して働こう。皆が気を揃えてやれば、何事もできぬことはない』

 秀蔵は先に立って工場へ急いだ。

 

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アース製薬創業者『木村秀蔵翁の伝記』 ブログ版 第13回


第13回

 

 第3章 坂越工場の建設 その4

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 彼を激励する声が彼の耳に聞こえてきた。

 

『世の発明家はみなこの苦しみを経験してきたのだ。いやこんなことではない。発明の為には一家離散さえしてしまった者もあるではないか。私などの苦しみはまだなんでもない』

 

 彼はいよいよ熱心に研究に従事したのであるが、東京の小林商店へ送り出す商品はすべて不合格であった。

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 ( 出典:ライオン歯磨き80年史)

ライオン歯磨き80年史によると明治40年7月小石川工場内に小林試験所を設立、歯磨きの研究を開始する。当初はドイツ産の炭酸マグネシアを使っていた。秀蔵翁は開発した炭酸マグネシアを、この試験所に送っていたと考えられる。


 突返された品の送料は勿論、製造家の負担である。 このような状態が、もう一ヶ月も続けば工場は閉鎖の憂目(うきめ)を見ねばならぬことは火を見るより明らかであった。昼夜の別なく研究に没頭する秀蔵には更に工場経営の経済上の悩みも続けねばならなかった。

 この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版で発売されます。今後はそちらでご覧ください (企画 東京都 矢竹考司)

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁の伝記』ブログ版 

 

 

 第3章  坂越工場の建設 その3

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  工場が出来てからも裏山には狐や狸がいたという話は、元監査役工場長原文次郎氏から私は直接伺った。その頃の坂越の里の淋しさは、想像以上であったろう。

塩の専売で漁村はさびれ、廃船はいたずら渚に捨てられていた。

 

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出典:坂越まち並み館展示中 児島高徳の碑建立(1913年)記念に紹介された坂越港

 

 しかし、あさ子夫人は、夫の突然の申出に決して反対はしなかった。

『何事も夫の心に任せよう。夫はそれだけのお考えがあってやることだ。必ず二人で力を合わせてやれば、新しい事業も成功するに違いない』

 

 どこまでも夫を信じ従順なあさ子は、不平一つ漏らすこともなかった。

 そして夫の命ずるままに、二十年近い辛苦の結晶である大阪の工場を身内の者に譲り、若干の金を懐にすると、一家を挙げてこの海辺の孤村へ移住したのであった。

 

 彼は、所持金の大半を、新工場の建設に投じた。

 
 一千余年の昔、菅公(菅原道真)筑紫へ流罪の道すがら、暴風雨に遭難し漂着されたと伝えられる同地大泊の海岸に、三百坪のバラック工場が建てられた。

 

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出典:『ふるさとの想い出 写真集赤穂』(赤穂市教育委員会協力)

 工場の右に見える住宅は、濱田廣吉(監査役)ら3人の為に秀蔵翁が新築したもの。

 

 この工事には、秀蔵夫婦は真先に土方となって働いた。とても大工にまかせて待っているというような、心の余裕をもたなかった。一日も早く、新しい炭酸マグネシヤ製造の仕事にとりかかりたかった。

 

 夫婦と子供達の寝室に当てられたのは、工場の一隅にある四畳半の一室であった。

 

 かくて坂越の新生木村製薬所が希望に燃えて誕生したのだ。

 

 時に明治43年(1910)、秀蔵も漸く働き盛りの40歳の1月のことであった。

 

 漸く出来上がった海辺の工場は、炭酸マグネシヤの製造に必要な晒箱(さらしばこ)が僅か20個。工員は濱田廣吉(元同社監査役、支配人)始め10人足らずの少人数であった。

 

  1月の生産高は十袋、五百斤(300㎏)を出でず。この十袋こそ木村家興亡の大切な鍵だったのである。意気込みは激しかった。しかし、出来上がった製品は意気込みとは反対に、どうも満足の出来るものではなかった。

 

 夫人あさ子も子供達を老母かめ女に預け、夫と共に朝から晩まで英々として働いた。しかし、製品は常に一家を失望に陥れた。

 

『あれだけの決意で、ライオンの小林さんに約束したのではないか。

まだまだ研究がたらぬのだ。

必ず小林さんを納得させるような製品が出来るまでは倒れてもやめない』

 

 彼は昼夜の別なく工場に立て篭もって、研究に没頭した。

 

『そんなに御勉強になっては、お体に障りましょう。

せめて、夜だけは少しでもお休み下さい。』

 

 夫の身を案じて共に寝もやらぬ夫人あさ子は、白々と夜の明けるまで試験管を握り締め、実験に余念のない夫に、心からの注意を与えるのであった。

 

『なあに。この位のことで体に障ったりするようなことはない。

もっと頑張る。必ず成功するまで頑張る。

しかしお前は女の身、ことに子供の世話までせねばならない。

お前こそ大切な体だ。自分のことは心配しないでいい。先にお休みよ』

 

 却って妻の身を労わるのであった。彼は妻を安心させる為に、自分も一度は横たわることもあった。しかし横たわっても頭の中は、炭酸マグネシヤのことで一杯で眠ることは出来なかった。

 

『薬学校を出たといえ自分の学歴は夜学にすぎぬ。自分の知識も知れたものである。』

  危なく絶望のふちに沈みかけたことさえもあった。

 『今少しの辛抱だ。お前は今が一番大切なところへ来ている。ここを突破しなければならぬ。ここを越せば、発明が出来るのだ』

 

 次回、第3章 坂越工場の建設  その4 お楽しみに

【編集後記】

 今回は菅原道真公にもふれている。

 道真が九州に流される途中、漂着した八ヶ谷(大泊)・宿泊した洞龍(逗留)の地名は、今も残っている。

 秀蔵翁は、八ヶ谷の地、坂越村の人に自分に通じるものを感じたのではないか。

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  (大避神社境内 右側にある 天満宮

 北之町(天神山)の北野天満宮(創建年は不明)は、大避神社再建(1769年)した頃に移設再建された。『赤穂の昔話 第3話』に、当時の坂越の人たちが道真を歓迎した話がある。 

 道さえなかった八ケ谷で夫人と希望に燃え工場建設し、お互いを思いやる姿に心うたれた。

 秀蔵が坂越に来たのは1909年だった。

 塩の専売制開始(1905年)で、塩を東京に運んでいた帆船が要らなくなって4年になっていた。

  秀蔵が、坂越の廻船業と関わるのはこの後になる。

                      企画構成(矢竹考司  赤穂市坂越出身)  

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版

第11回

 

 第3章 坂越工場の建設 その2

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  遂に熱意は熱意をもって迎えられたのである。

『有難う御座いました。また若輩の私如きにこのような大事業をお任せくださいました御好意に対しましても、必ず完成してご期待に添いましょう』

 

 秀蔵は初一念を通したうれしさに熱い涙が頬をつたうのを禁じ得なかった。

 

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版で発売されます。今後はそちらでご覧ください (企画 東京都 矢竹考司)

 

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版

 

 第10回

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 第3章「坂越工場の建設」 その1

 

当時の事情を知る為に、ライオン歯磨工場技師 松野恵蔵氏の談話を掲げよう。

 

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 明治の創業当時の ライオン歯磨  神田店舗

 出典『ライオン歯磨き80年史』(ライオン歯磨刊 昭和48年版)

 

『私の入社当時は、炭酸カルシウムも炭酸マグネシヤも舶来品で主として英国製品であった。炭酸カルシウムはあたかもビヤ樽のような大きな樽詰として輸入され、炭酸マグネシヤは日本の豆腐を二つ繋ぎ合わせた位の大きさの長方形の塊で、これを大きな木箱に入れて輸送された。

 

 この炭酸カルシウムと炭酸マグネシヤを一つ一つ試験して合格品にあらざれば一切使用せざることにした。処が英国品は総じて優良のものならんと思って居ったが、中には不適品もあったには驚いた。

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版で発売されます。今後はそちらでご覧ください (企画 東京都 矢竹考司)