アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第30回

第30回

 

第8章 成功路 その2

 

 かかる困難なる情勢下にあって、「万人油」は更に南洋方面にまで其の販売を開拓せんと企画されたのである。

f:id:chopini:20210629065906p:plain

 昭和十四年(1939年)、大阪日商株式会社を南方輸出総代理店として蘭領東印度方面は同社スラバヤ出張所、英領印度及ビルマは同ボンベイ支店及甲谷陀出張所を中心として南方各地市場に於いて、シンガポール製「万金油」の華僑地盤に対して宣伝販路開拓を開始したのであった。

 日商スラバヤ出張所に於いては、宣伝用自動車三台を購入し、宣伝隊を組織しジヤバ奥地、及全島の隅々まで宣伝旅行を試みる等、多大の犠牲を払って宣伝工作を継続し、漸く原住民間に認められるに至ったのである。

 

 しかし、これらの南方各地に於ける華僑との競争は、激烈を極めたものである。

 

 「虎標万金油」は、卑劣にも輩下支那人を駆使して妨害を為し、卑劣な手段を弄して「地球印」の進出を阻止せんとしたのである。頑強に対抗すること二年有半、あらゆる困難と闘って、南方進出を全うせんとしたのである。

 

 しかし、商戦の不利なるを悟ると、華僑達は遂に値下げ断行によって、飽くまで我に卑怯な、不当なる圧迫を加え来たったのである。

 f:id:chopini:20210817182229j:plain

   (出典 国会図書デジタルアーカイブ)

1930年代日本からオランダ領東インドへの輸出増大から、オランダが対日輸入制限をした。

 

 当時、国際情勢は急激に悪化し、日蘭会商(日本とオランダとの貿易会議)は、不首尾に終わり、本邦からの対蘭向輸出は、全般的に許可制となり事実上に於いては禁止同様の状態となった為、同出張所は在庫品の売食いを続け、資金凍結を見るに及び、昭和十六年十二月初旬、同社南方総支配人たる藤原恒三郎氏以下、涙をのんで引き上げるの止むなきに至ったのである。

 

 ここにもABCDラインの圧迫があった。

 折角、国産品「地球印万人油」を以て、遠く万里の外に外国製品と雌雄を決していた際である。実に熱湯を呑む思いであった。しかるに昭和十六年(1941)十二月八日かたじけなくも米英に対し宣戦の御詔勅が下った。乾坤(けんこん)一擲(いってき)の大戦争中に突入したのである。緒戦に於ける戦果は華々しく続いた。ハワイにマレー沖に快報は踵(きびす)を接して集った。翌十七年(1942)二月、英国が東洋侵略の一大拠点と恃んだシンガポールも陥落した。胡文虎、胡文豹兄弟は皇軍入城に先だって遁走し、シンガポールに於ける「万金油工場」は敵産の故をもって皇軍の手に帰したのである

 

f:id:chopini:20210830142822p:plain

( 出典『日本を包囲するABCDライン』 国会図書館デジタル)

 

  赫々たる南方の戦果と共に、再び「地球印万人油」は南方に目覚しき進出を続けた。

 シンガポール、ジャバ、スマトラ皇軍の平定するところ日章旗と共に、「地球印万人油」は前進を続けた。

 常備家庭薬として、又宣撫工作上、必要欠くべからざる薬品として、いよいよその重要性は各方面から認識されるに至った。

 

 万人油創製以来僅か四年、実に売上高は年額二百万円に達し、満洲国に於いては新京、奉天に工場を新設し、上海には出張所を独立せしめ、上海環球大薬廠の下に現地製造を行い、今や広範なる大陸各地域に亘り、需要に応ぜんと大躍進を続けつつあるのである。

 

次回、第8章 成功路 その3 お楽しみに

【編集後記】

 日蘭会商に加え、ABCDラインで日本の産業界は危機に瀕していた。

f:id:chopini:20210828140406p:plain

(出典 国会図書館デジタル)

 昭和8年(1933)日本は国際連盟を脱退し、アメリカ、イギリス、オランダが対日資産を凍結した。

 石油などの輸出規制、禁止等、日本の東南アジア進出に、アメリカ等がABCDラインといわれる包囲網をつくり、日本に対抗した。

 (ABCDラインとは、アメリカ(America)イギリス(Britain)中国(China)、オランダ(Dutch)の頭文字を並べたもの)

 日本は国際的に孤立し、戦時体制下のビジネス環境は苦難の連続だった。

 世界から孤立した苦難は想像もできないが、経営者、研究者だった秀蔵翁は、満州からシンガポールに進出し、「虎標万金油」に対抗した「地球印万人油」で成功している。

                  (企画構成 赤穂市坂越出身 矢竹考司)