古式捕鯨と塩釜第4回(塩釜から見える鯨料理③)

  • この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と釜釜」に新たに写真や解説を加えたものである

 

    出典     日本鯨類研究所から出版された日本鯨紀行(西日本編)

 朝鮮通信使赤間関(下関)から江戸へ向かう各地で日本料理が饗された。

七五三膳が最高級の饗応献立で通信使それぞれの身分に応じて最高の御馳走をだしていた。

 1624年の七五三膳の本膳・兵庫県室津で 出典 朝鮮通信使の饗応

  

1624年の七五三膳を再現’(室津会駅館で再現・鯨料理はない)

 

 正徳元年(1711)から翌年にかけての饗応の記述から、鯨が最高級の食材が鯨だったことがわかる。                                 

 この記録では、総勢493人の三使(正使1人、副使2人)、上々官3人と同行した通詞59人の饗応に、正徳2年(1712)2月2日晩から9日朝まで、6回にわたり鯨肉の赤身・黒皮・テイラ(尾羽毛)を供給していた。供給された鯨肉は563貫(2111キログラム)になるが、どのような料理を出したかは不明である。

この他、寛永13年(1636)、明暦元年(1655)、天和2年(1682)、 延享5年(1748)、 宝暦14年(1764)の約90年間に6回の記録が『日本家政学会誌』『鯨料理の文化史』にある。

 

この文献には、朝鮮人はくじらに対する日本人の嗜好を、「鯨肉は豚の脂肪層の如くあっさりしており、日本人は国中で第一の美味しい食べ物としている。 

 

 紀伊殿より塩漬けの鯨肉30包み(1包 約6kキロ)が送られ、対馬島の人達が塩漬けの鯨肉を美味しいと言って食べたいと言っているので送った」などと述べている。さらに、壱岐島では「当地の入の捕の遊びを使行一覧に供したい」と、朝鮮では珍しい捕鯨の様子をみせられている。これら一連の記述からは、くじらが獣肉類とは反対に、日本人には好まれる食品であったとしている。

  

 この鯨料理に、殺菌作用と保存性を高める作用をもつ、高濃度の塩、砂糖、酢などが使われたと多くの研究論文にあるが、この高濃度の塩とは鉄釜で煮詰めた真塩のことである。

 次回はこの真塩の特色を紹介する。

 

木村秀蔵翁伝記(アース製薬創業者) 出版のお知らせ

 明治末、大阪から瀬戸内海の小さな漁村に移住し、塩の苦汁から世界に誇る炭酸マグネシウム開発に成功した現アース製薬創業者木村秀蔵翁の家族と村の物語である。

 

  アマゾンのサイトの画像

炭酸マグネシウムの生産には、塩の副産物の他、大量の水が不可欠で、塩に産地瀬戸内海地方は大量の水を供給できる地域は少なく、最初に開発した鳴門でも大量生産に至らなかった。

ライオン歯磨の初代小林富次郎も研究所を作り良質の炭酸マグネシュウムの開発をしていたが、断念する。

 富次郎は木村秀蔵の熱意から秀蔵に任せる。

 

2023年3月末に坂越のまち並みを創る会が発行する広報誌

 
 
秀蔵は塩の産地赤穂(坂越)で研究を続け、富次郎が認める製品が完成するのに最初の完成から10年かかった。

  赤穂市広報提供

多くの苦難の中で、千種川から山越え水を引く等、奇抜なアイデアで世界に誇る炭酸マグネシュウムの大量生産に成功する。この成功が、思いがけない展開をもたらすことになる。

 「世界一の品質を誇った秀蔵の炭酸マグネシウム」が貿易港として開港した神戸のゴム工業の発展に、大きく寄与する事になる。

 これは、ゴムに炭マグを加えるとその耐久力が倍増することをゴム会社が発見し、秀蔵が開発した炭酸マグネシュウムだけだった。年間千トンもの輸出し、ダンロップブリジストンなど名だたる企業が木村製薬の炭マグを使用することになる。

 

秀蔵は、事業の成功だけではなかった。

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 木村製薬所まで、水道を敷設する工事(昭和10年赤穂町より9年早かった)
 

 秀蔵の言葉に「この土地で仕事をさせて貰うからにはこの土地の為に奉公したい」の言葉があるが、工場まで水道を敷設するが、当時、井戸水しかなかった沿線の坂越町の民家に無償で水道水を供給、小学校建設にも多額の寄付をしている。

 原料や製品を大量輸送ができる使われなくなった帆船が坂越港に沢山あったことが事業拡大の後押しになった。f:id:chopini:20230314231724j:image

  さびれていた港に帆船の賑わいが戻ってきた(昭和初期の坂越の観光絵ハガキ

 苦汁の原料の赤穂塩、帆船が沢山あった坂越港は北前船でそれぞれ日本遺産に認定された。
                   東京都 矢竹 考司

 

 

『木村秀蔵翁伝記』復刻を終わって 

  『木村秀蔵翁伝記』復刻を終えて

 

木村秀蔵翁の孫にあたる嶋谷徹氏との出合いは、私が企画したシリーズ「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの」がきっかけだった。

東京と実家のある赤穂を行き来していた私は赤穂観光協会のガイドになり、坂越の北前船と赤穂塩について酒田など各地を訪ね、専門の方に取材し、それをシリーズに発信していた。

 そんな発信を知った嶋谷氏から、ご自身の著書『嶋谷海運業史』を頂いた。

 

   

 この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版でも読めます。今後はそちらでご覧ください

                         東京都在住 矢竹 考司

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版(最終回)

第37回 

第10章 終篇  最終回

 今や、日本は、国を挙げて米英撃滅の為に戦いつつある。国家総力戦とはお互いに苦しみ、その苦しみに耐えて敵撃減に邁進することである。

 若き日の秀蔵は、かつて欧米碧眼の商人の横暴に憤激して、舶来品駆逐の先頭に立ったのである。

 

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                         東京都在住 矢竹 考司この木村

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第36回 

 

第36回 

第10章 終篇  その1

 

 これで秀蔵の伝記は終わったのではない。何故なら、翁は尚矍鑠(かくしゃく)として健在である。ただ脚部の故障の為にその起居に多少の自由を失っておられるだけである。

 

 彼の生活は、真に男子として悔いなき敢闘の歴史であり、成功の歴史であった。信念と意気をもって、一貫した逞しき人生である。

 

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                         東京都在住 矢竹 考司

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第35回  

第35回  

第9章 信念に生く その3

………毎月贈恵せる金額既に本年三月までに二千円に達し、中一千円を客年十二月末日本村氏の意志にもとづき、大阪住友、安田の両信託会社に、各五百円宛五十年間据置預金とし、五十年後において(誓約書、省略)、各項目に充当すべく希望せられし処、部落住民は同誓約書二通を作成、赤穂登記所において奥書し、中一通を木村家に残し、一通を代々の区長に引継ぐ事とせり。

(中略)

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                         東京都在住 矢竹 考司

 

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第34回 

第34回

第9章 信念に生く その2

 

「最後にもう一つ、創業以来炭酸マグネシヤ製造に関して、小林富次郎氏から寄せられた好意と鞭撻、炭酸マグネシヤ輸出に非常な御尽力をされた友田合資会社及び、「チキウ」、「キイロン」販売の昔より終始変らぬ好意を示された東京玉置商店、大阪高橋威大堂、同丹平商会、三井物産株式会社の方々に対しては木村製薬所有る限り、切り放して考える事の出来ない大恩人として常に感謝している。

 

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(企画構成 東京都 矢竹考司)

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第33回

 

第33回

第9章 信念に生く その1

 

「成功は人力ではない、天の力だ」と言う秀蔵の信念は、「至誠神に通ず」という信条が全生涯を支配したのである。

 

「天は無言にして徳あらずんば動かず、神は著明にして誠あれば必ず感応す、福運の源は誠実に在り」と看破した秀蔵の教典は、次々に偉大なる功徳を見せて、これを実証したのである。

 

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「わしは幸運なのだ、わしの仕事は必ず成功する」

 

 

                 (企画構成  東京都    矢竹考司)

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第32回

第32回

第8章 成功路 その4

 

 実に炭酸マグネシヤの成功以来、秀蔵の不断の努力はここに大いなる果実を結ぶに至った。「キイロン」「チキウ」の昔より、「ネオアース」に至る道程は必ずしも短いものでもなく、平坦なものでもなかった。しかし誠実と努力と忍耐とが良く困難を征服し得たのである。

 

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版で発売されます。

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赤穂市坂越小島の鼻先に今もある東家(提供:木村正彦氏 西宮市在住)

 

 

                (企画構成  東京都  矢竹考司)

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第31回

第31回

第8章 成功路 その3

 国産「アースタム」を最初に、あらゆる困難を克服して今や木村製薬は大東亜共栄圏各地に向って経済建設、資源開発、宣撫工作の一翼を担いつつ、不断の活躍を国策の示すところに沿って続けているのである。

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版で発売されます。

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                (企画構成  東京都 矢竹考司)

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第30回

第30回

 

第8章 成功路 その2

 

 かかる困難なる情勢下にあって、「万人油」は更に南洋方面にまで其の販売を開拓せんと企画されたのである。

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 昭和十四年(1939年)、大阪日商株式会社を南方輸出総代理店として蘭領東印度方面は同社スラバヤ出張所、英領印度及ビルマは同ボンベイ支店及甲谷陀出張所を中心として南方各地市場に於いて、シンガポール製「万金油」の華僑地盤に対して宣伝販路開拓を開始したのであった。

 日商スラバヤ出張所に於いては、宣伝用自動車三台を購入し、宣伝隊を組織しジヤバ奥地、及全島の隅々まで宣伝旅行を試みる等、多大の犠牲を払って宣伝工作を継続し、漸く原住民間に認められるに至ったのである。

 

 しかし、これらの南方各地に於ける華僑との競争は、激烈を極めたものである。

 

 「虎標万金油」は、卑劣にも輩下支那人を駆使して妨害を為し、卑劣な手段を弄して「地球印」の進出を阻止せんとしたのである。頑強に対抗すること二年有半、あらゆる困難と闘って、南方進出を全うせんとしたのである。

 

 しかし、商戦の不利なるを悟ると、華僑達は遂に値下げ断行によって、飽くまで我に卑怯な、不当なる圧迫を加え来たったのである。

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   (出典 国会図書デジタルアーカイブ)

1930年代日本からオランダ領東インドへの輸出増大から、オランダが対日輸入制限をした。

 

 当時、国際情勢は急激に悪化し、日蘭会商(日本とオランダとの貿易会議)は、不首尾に終わり、本邦からの対蘭向輸出は、全般的に許可制となり事実上に於いては禁止同様の状態となった為、同出張所は在庫品の売食いを続け、資金凍結を見るに及び、昭和十六年十二月初旬、同社南方総支配人たる藤原恒三郎氏以下、涙をのんで引き上げるの止むなきに至ったのである。

 

 ここにもABCDラインの圧迫があった。

 折角、国産品「地球印万人油」を以て、遠く万里の外に外国製品と雌雄を決していた際である。実に熱湯を呑む思いであった。しかるに昭和十六年(1941)十二月八日かたじけなくも米英に対し宣戦の御詔勅が下った。乾坤(けんこん)一擲(いってき)の大戦争中に突入したのである。緒戦に於ける戦果は華々しく続いた。ハワイにマレー沖に快報は踵(きびす)を接して集った。翌十七年(1942)二月、英国が東洋侵略の一大拠点と恃んだシンガポールも陥落した。胡文虎、胡文豹兄弟は皇軍入城に先だって遁走し、シンガポールに於ける「万金油工場」は敵産の故をもって皇軍の手に帰したのである

 

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( 出典『日本を包囲するABCDライン』 国会図書館デジタル)

 

  赫々たる南方の戦果と共に、再び「地球印万人油」は南方に目覚しき進出を続けた。

 シンガポール、ジャバ、スマトラ皇軍の平定するところ日章旗と共に、「地球印万人油」は前進を続けた。

 常備家庭薬として、又宣撫工作上、必要欠くべからざる薬品として、いよいよその重要性は各方面から認識されるに至った。

 

 万人油創製以来僅か四年、実に売上高は年額二百万円に達し、満洲国に於いては新京、奉天に工場を新設し、上海には出張所を独立せしめ、上海環球大薬廠の下に現地製造を行い、今や広範なる大陸各地域に亘り、需要に応ぜんと大躍進を続けつつあるのである。

 

次回、第8章 成功路 その3 お楽しみに

【編集後記】

 日蘭会商に加え、ABCDラインで日本の産業界は危機に瀕していた。

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(出典 国会図書館デジタル)

 昭和8年(1933)日本は国際連盟を脱退し、アメリカ、イギリス、オランダが対日資産を凍結した。

 石油などの輸出規制、禁止等、日本の東南アジア進出に、アメリカ等がABCDラインといわれる包囲網をつくり、日本に対抗した。

 (ABCDラインとは、アメリカ(America)イギリス(Britain)中国(China)、オランダ(Dutch)の頭文字を並べたもの)

 日本は国際的に孤立し、戦時体制下のビジネス環境は苦難の連続だった。

 世界から孤立した苦難は想像もできないが、経営者、研究者だった秀蔵翁は、満州からシンガポールに進出し、「虎標万金油」に対抗した「地球印万人油」で成功している。

                  (企画構成 赤穂市坂越出身 矢竹考司)

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第29回

第29回

第8章 成功路 その1

 

 

 昭和八年満洲事変はめでたく終結し、満洲国は洋々たる前途を祝福されつつ独立したのである。わが産業界も、こぞってこの大陸を目指して進出を競った。

 木村製薬所では、三井物産株式会社の手を通じて殺虫剤「亜蘇」・家庭薬「亜蘇達母膏」が、大陸に向かって輸出されていたのである。

 

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版でで発売されなした。今後はそちらでご覧ください(企画構成 東京都 矢竹考司)

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第28回

 

編集

第28回

7章 アースタム出現 その3 

 

 年代は前後するが、秀蔵が人に対する信頼感の良き例の一つとして、江見宏正氏との関係を誌そう。

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 江見氏は岡山で或る火災保険会社の代理店を経営していた。勤勉な彼は特に日曜日を特勤日として、この日は自転車に乗って、あの町この町と目的を定めて勧誘に努力していた。

この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版でで発売されなした。今後はそちらでご覧ください(企画構成 東京都 矢竹考司)

 

 

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第27回

第27回

 第7章 アースタム出現 その2

 其の後、続いて木村製薬所は淋疾治療剤「ゴノバーム」「リンダリン」・歯槽化膿性疾患治療剤「ピレピン」・水蟲治療剤「ペリラ」・粉末駆虫剤「撃滅」等売薬及部外品等に数種の薬剤を発売した。

 一方炭酸マグネシヤに付随して「食塩」の製造を開始し、加えて「苦汁加里塩」及「ブローム」の製造に着手して何れも確実なる地歩を着々として築き、「製薬木村」の名は、今や国内は勿論国外にまで謳わるるに至ったのである。

 

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この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版でで発売されなした。今後はそちらでご覧ください(企画構成 東京都 矢竹考司)

 

 

アース製薬創業者『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第26回

第26回

第7章 アースタム出現 その1

 

 殺虫剤「アース」の創製によって秀蔵は念願の一つなる輸入品の駆逐に成功した。

  そこで次の作戦に移った。 それは、大正六年頃より急激に輸入された家庭薬「メンソレータム」に対する挑戦であった。

 原料は主としてわが国特産の樟脳、薄荷にワセリン、他数種の薬品を配合加工したものである。一般には欧州大戦中に発見された、何にでもよく効く薬として宣伝されていた。そして、その強力な宣伝によって当時国内に於いて早くも抜くべからざる地歩を占めていた。

 

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この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版でで発売されなした。今後はそちらでご覧ください(企画構成 東京都 矢竹考司)

 

 

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   戦前の雑誌の広告(アース製薬東京本社提供)