赤穂郡坂越村の時代に活躍した『木村秀蔵翁伝記』ブログ版第3回

 

 アース製薬の礎を築いた『木村秀蔵翁伝記』は、平成22年に発行されたが、地元赤穂市立図書館にもなく絶版になっている。

 そこで、関係者の方々の協力を得てブログで紹介しています。

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 第1章 丁稚のころ その2

 ここで翁の祖先について記す必要がある。

 翁の祖先は伊勢松坂藩で槍術の指南番であった。
しかるに先々代、東(あずま)市兵衛の時、故あって町人となり同じ松坂出身の三井家に仕え、その才腕を認められ主人名代役にまで昇進せられたのである。 


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三井高利像(出典 松阪市所蔵より一部抜粋)

 翁が東氏を名乗らずに木村の姓を継いだのは先に誌(しる)したように実母に伴われて、母方の木村姓を継がれたからである。 
 幼い秀蔵にとって幼時に受けた実父との生別、一家の窮乏は全生涯を通じて忘れ難いものであった。

 秀蔵は如何なる苦痛にも堪えて父の不運を挽回しようと悲愴な決意の下に自ら求めた茨の道は、薬種問屋への丁稚奉公であった。
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 備後町道修町に近い。道修町に多くの製薬会社があった。(出典 くすりの道修町資料館)

 即ち明治16年(1883年)2月大阪市東区備後町1丁目小寺幸次郎商店へ住み込んだのであった。

 実に翁の14才の冬のことである。

 自ら求めた道とはいえ、まだ悪戯(いたずら)ざかりの14才の秀蔵、まして温かい母の手元に育てられた彼にとっては大阪の商家の掟は相当厳しいものであったにちがいない。 

 朝は早くから夜は遅くまで走り使いに追いまわされた。
しかし彼は、朝は寝足らぬ眼をこすりつつも一番早く起き朋輩(ほうばい)達の起上がるまでには店も外回りも掃除はすませてしまう。

彼は骨身惜しまず、全く私を忘れて働くことに懸命であった。

『秀蔵は何をさせても大丈夫や、陰日向(かげひなた)なく働いてくれるし、他の丁稚(でっち)と違って見どころがある』 いつしか奥から目をかけられるようになった。彼は一層陰日和なく主家の為に働いた。 

 人の嫌がる仕事は自分から進んでやるように心掛けた。自然女中達にも受けがよく、事毎に庇(かば)って親切にしてくれるようにさえなった。辛いながらも漸く丁稚奉公も板について来た。 

明治13年1880年)といえば懐かしき明治文化の温床期である。

 その8月12日の東京曙新聞には「開国以来輸入超過の連続 日本の財政ますます危険」という記事が載せられている。
明治元年1886年)より12年(1879年)までの輸出入を見るに輸出(12年間通計)
2億4600万円余輸入(12年間通計)3億2100万円余出入合計5億100万円余12年間差引不足7500万円余輸入の常に輸出に超過するは珍しからぬことなるもいやしくも愛国の志気ある者は誰かこれを視て感奮(かんぷん)せざる者ぞ。

 又更に、その12月2日東京日日新聞には「白木屋大村彦三郎出世譚(たん)」として一時煙草の禁止された頃、一人の浮浪者が三条大橋の下で「膝の下に煙草を反古(ほご)にひねりいかさま忍びて吸う体なり。

 かかる困苦の場に沈みてもえ捨てやらで吸うのを見ればこの禁制はとても永くは続かぬと見ぬき、問屋や、職人が持ち困っている煙管の類を安値に買い込みしが推量の通り久しからずして吸煙の禁解かれたるにぞ」云々かくして大村氏は千金を利したという記事がある。

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       江戸末期の白木屋(ウキペリア2次使用)

そして更に面白いのはこの記事の最後に「これに先従、追っては近ごろ刀剣を買いこむもの京都にも多くなりしと」と書いてある。明治13年1880年)を代表する2つの記事をここに誌(しる)して当時を偲び度いと思う。

 

    かかる時代に14才の秀蔵は商都薬種商の一丁稚として彼の人生への第一歩を進めていたのである。

 

次回、丁稚の頃 その3 お楽しみに 

【編集後記】

 「赤穂市アース製薬の包括提携」が、2020年8月赤穂民報でも報道された。詳細は下記のURLでご覧下さい。

http://www.ako-minpo.jp/news/14758.html

 この記事は、このブログ掲載の後押しになった。

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協定書に調印したアース製薬の川端克宜社長(右)と牟礼正稔市長 (提供元 赤穂民報社)

  木村秀蔵翁の先祖は、伊勢松坂の三井家の主人名大役だった。三井の創業者三井高利は、伊勢から13歳で江戸に出た材木屋の河村瑞賢と同時代の人物。

 瑞賢は、幕府からその才覚が認められ、東廻り・西廻り航路を開発した事は広く知られている。

 文中の白木屋・初代大村彦三郎は、1662年14歳で木材屋から3大呉服店の一つになるまでに事業を拡大させた人物。

 この3人は、同じ時代に並外れた独創性に加え人を引き付ける魅力があったであろう。

 木村秀蔵も14才から社会の荒波に入っていくが、同様の予感を感じた。
 

   企画(矢竹考司 東京在住 赤穂市出身)