第3章 坂越工場の建設 その3
工場が出来てからも裏山には狐や狸がいたという話は、元監査役工場長原文次郎氏から私は直接伺った。その頃の坂越の里の淋しさは、想像以上であったろう。
塩の専売で漁村はさびれ、廃船はいたずら渚に捨てられていた。
出典:坂越まち並み館展示中 児島高徳の碑建立(1913年)記念に紹介された坂越港
しかし、あさ子夫人は、夫の突然の申出に決して反対はしなかった。
『何事も夫の心に任せよう。夫はそれだけのお考えがあってやることだ。必ず二人で力を合わせてやれば、新しい事業も成功するに違いない』
どこまでも夫を信じ従順なあさ子は、不平一つ漏らすこともなかった。
そして夫の命ずるままに、二十年近い辛苦の結晶である大阪の工場を身内の者に譲り、若干の金を懐にすると、一家を挙げてこの海辺の孤村へ移住したのであった。
彼は、所持金の大半を、新工場の建設に投じた。
一千余年の昔、菅公(菅原道真)筑紫へ流罪の道すがら、暴風雨に遭難し漂着されたと伝えられる同地大泊の海岸に、三百坪のバラック工場が建てられた。
出典:『ふるさとの想い出 写真集赤穂』(赤穂市教育委員会協力)
工場の右に見える住宅は、濱田廣吉(監査役)ら3人の為に秀蔵翁が新築したもの。
この工事には、秀蔵夫婦は真先に土方となって働いた。とても大工にまかせて待っているというような、心の余裕をもたなかった。一日も早く、新しい炭酸マグネシヤ製造の仕事にとりかかりたかった。
夫婦と子供達の寝室に当てられたのは、工場の一隅にある四畳半の一室であった。
かくて坂越の新生木村製薬所が希望に燃えて誕生したのだ。
時に明治43年(1910)、秀蔵も漸く働き盛りの40歳の1月のことであった。
漸く出来上がった海辺の工場は、炭酸マグネシヤの製造に必要な晒箱(さらしばこ)が僅か20個。工員は濱田廣吉(元同社監査役、支配人)始め10人足らずの少人数であった。
1月の生産高は十袋、五百斤(300㎏)を出でず。この十袋こそ木村家興亡の大切な鍵だったのである。意気込みは激しかった。しかし、出来上がった製品は意気込みとは反対に、どうも満足の出来るものではなかった。
夫人あさ子も子供達を老母かめ女に預け、夫と共に朝から晩まで英々として働いた。しかし、製品は常に一家を失望に陥れた。
『あれだけの決意で、ライオンの小林さんに約束したのではないか。
まだまだ研究がたらぬのだ。
必ず小林さんを納得させるような製品が出来るまでは倒れてもやめない』
彼は昼夜の別なく工場に立て篭もって、研究に没頭した。
『そんなに御勉強になっては、お体に障りましょう。
せめて、夜だけは少しでもお休み下さい。』
夫の身を案じて共に寝もやらぬ夫人あさ子は、白々と夜の明けるまで試験管を握り締め、実験に余念のない夫に、心からの注意を与えるのであった。
『なあに。この位のことで体に障ったりするようなことはない。
もっと頑張る。必ず成功するまで頑張る。
しかしお前は女の身、ことに子供の世話までせねばならない。
お前こそ大切な体だ。自分のことは心配しないでいい。先にお休みよ』
却って妻の身を労わるのであった。彼は妻を安心させる為に、自分も一度は横たわることもあった。しかし横たわっても頭の中は、炭酸マグネシヤのことで一杯で眠ることは出来なかった。
『薬学校を出たといえ自分の学歴は夜学にすぎぬ。自分の知識も知れたものである。』
危なく絶望のふちに沈みかけたことさえもあった。
『今少しの辛抱だ。お前は今が一番大切なところへ来ている。ここを突破しなければならぬ。ここを越せば、発明が出来るのだ』
次回、第3章 坂越工場の建設 その4 お楽しみに
【編集後記】
今回は菅原道真公にもふれている。
道真が九州に流される途中、漂着した八ヶ谷(大泊)・宿泊した洞龍(逗留)の地名は、今も残っている。
秀蔵翁は、八ヶ谷の地、坂越村の人に自分に通じるものを感じたのではないか。
(大避神社境内 右側にある 天満宮)
北之町(天神山)の北野天満宮(創建年は不明)は、大避神社再建(1769年)した頃に移設再建された。『赤穂の昔話 第3話』に、当時の坂越の人たちが道真を歓迎した話がある。
道さえなかった八ケ谷で夫人と希望に燃え工場建設し、お互いを思いやる姿に心うたれた。
秀蔵が坂越に来たのは1909年だった。
塩の専売制開始(1905年)で、塩を東京に運んでいた帆船が要らなくなって4年になっていた。
企画構成(矢竹考司 赤穂市坂越出身)