赤穂郡坂越村の頃アース製薬 (坂越八が谷港に面した工場)
出典『ふるさとの想いで写真集赤穂』松岡秀夫著(協力 赤穂市教育委員会)
しかし小寺氏は『自分の後継者は秀蔵以外にない』とひそかに秀蔵に
この店を継がせることを計画していたのである。
この木村秀蔵伝記は、2023年3月17日からアマゾンから書籍とキンドル版で発売されます。今後はそちらでご覧ください (企画 東京都 矢竹考司) 羨望嫉視の的となっていた秀蔵が一躍養子にむかえられるという噂が
店内にいつ漏れるともなく拡がった時、口さがない店員達は
どんなに騒ぎ立てたことであろう。秀蔵に対して露骨に
反抗の態度さえ示すに至ったのである。
(出典 くすりの道修町資料館)
一介の丁稚から大薬種問屋の主人になるのだ。
誰しも心動くのは当然であろう。
しかし秀蔵の頭には他人の財産で成功しようなどという考えは毛頭なく、
主家を暇乞(いとまご)いして何時かは独立すべき適当の機会を待っていたのである。
一夜小寺氏から膝詰め談判で養子の問題が持ち出されたとき、
暫くの猶予を乞うて主人の前から引き下がった秀蔵は自分の部屋に
帰るとじっと考えつづけた。
『折角の御好意だがお断りしよう。自分は他人の財産で成功しようとは思わぬ。
自分の力の続く限り自分でやり遂げねばならぬ。
これが父に対するほんとの孝道でもある』
主人 小寺氏も何れ時期を見てと思ったのか、それから後はふっつりと
その問題に触れなくなり秀蔵も亦(また)陰日和なく働くことには全く変わりなかった。
薬学校を出た新進気鋭の秀蔵はこの小寺氏のところにあって、
「丁幾舎利別」「硝酸銀」「硫酸」「舎利塩」「局方硝酸」「塩酸」等を
製造したということが誌るされている。
(蒸留缶) (濾過器)
当時、医薬品の製造に使用していた蒸留館と濾過器。
(出典 大日本住友製薬)(くすりの町・道修町と大日本製薬の歩みに関する資料展示より)
ある日秀蔵は突然主人の前に一切を打ち明けて暇乞いを申し出た。
主人も秀蔵の堅い決心を知り、快く其の乞いを容れた。
『申訳ありません。私は決して小寺家が不足なのではありません。
私は何としてでも自分の力で家を興したいのです』
涙さえ湛えて心中を披瀝した。実に厚恩(こうおん)を受け、
10年間も住み馴れた小寺家を去るのである。
眞に万感交々(こもごも)至り彼は主人の温容を正視することが
出来なかった。
後年不幸小寺家が没落したとき、旧主はわざわざ坂越の木村家を訪れ
家宝の尉(じょう)と姥の軸を贈り
『お前が小寺の家を継いでいて呉れたら、今日の悲嘆は見なかったろうに』
と昔を回顧して老眼に涙を湛えられたということである。
(出典 大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
明治の新町付近
かくして青年薬剤師は奉公中の貯金と信用とを資本にして、
難波新川の場末(南区新町2)に小さいながらも酸製造の工場を建て、
始めてその製品に「地球印」と銘打った。
待望の独立の出来た秀蔵の心中は、眞に察するに余りあるものがある。
かくしてこれが今日の木村製薬所の発端である。
次回、第2章 孤軍奮闘時代 その1 お楽しみに
【編集後記】
このブログ読者で、北前船寄港地を日本遺産登録に尽力され坂越に
造詣の深い方から以下のコメントをいただきました。
『全国の北前船の終焉の時を告げる頃、アース製薬の創業者 木村秀蔵は
その坂越に拠点工場を作りました。赤穂市の歴史を感じる
北前船の寄港地 坂越は、今も当時の風情を残す魅力ある町です』
時代がかわり坂越には、定期航路の汽船が入港していた。
秀蔵が坂越に来たのはこの定期航路だったかもしれない。
(坂越町並み館展示中) 坂越〜大阪間の定期航路(1885年より就航)
丁稚をしながら、ドイツ語そして開校間もない薬学校で学んだ秀蔵。
江戸の時代から薬の歴史ある道修町の熱気と刺激が
秀蔵を支えていたのに違いないと道修町を調べて思った。
鎖国の時代から僅か30年、「地球印」の名前をつけたその夢の大きさ
を感じた。 企画構成(矢竹考司 東京在住 坂越出身)
秀蔵は一日の激しい仕事が終わって、朋輩(ほうばい)達が雑談や居眠りをしている時間に夜学に通うことを許された。即ち備後町三のドイツ学校へ入学したのは18年(1885年)の1月である。
更に19年(1886年)2月には大阪東区伏見町の薬学校夜学部に入学することが出来たのである。
明治の伏見町(出典 大阪市立図書館オープンデジタルアーカイブ)
『秀ドン そない毎晩勉強せんとたまには、一緒に遊びにいかんかいな』
朋輩達の誘惑も彼にとっては何の反響もなかった。
彼にはただ烈々たる希望があった。『一生懸命勉強して、立派な人間になり、家運を挽回するのだ』
少年秀蔵の心はそれでもういっぱいであった。
『勉強だ勉強だ。これからの世の中は学問がなければ仕事は出来ぬ』
彼は一日働き続け、疲れた体を鞭打って夜学校に向かった。好学の瞳は夜の教室に火のように燃えていた。そして夜学を終え店へ帰ると豆ランプの鈍い光を頼りに、朋輩の寝静まった夜半勉強を続けるのだった。
明治の道修町(出典 国会図書館デジタルアーカイブ)
昼間の仕事に疲れ切った体はいつのまにか枕に顔を伏せて、軽いいびきを立てていることもあった。
『こんな意志の弱いことでは勉強は出来ぬ』
彼は睡魔と戦う為に一つの工夫を試みた。
蒲鉾板(かまぼこいた)に幾本もの釘を打ち抜いたものをこしらえた。そして夜勉強する時、尖(とが)った方を上にして肘をのせ睡魔に襲われて居眠りすれば我肘を突刺す仕掛になっていた。
恐ろしい目覚まし道具である。かくまで自らを虐(しいた)げねば睡魔と闘い抜くことが出来なかったのである。
若い日の秀蔵の決意こそ悲愴なものであった。
かかる努力の報いられぬ筈はない。
明治25年(1892年)5月からは薬学校の寄宿舎に入り、更に一層の勉強をつづけ同年9月1日優等の成績をもって同校を卒業、10月29日めでたく薬剤師免状を下付せられたのである。実に秀蔵22歳の秋である。
青年秀蔵はかくして自らの人生に向かって希望の第一階段を踏み出したのである。
『秀蔵は実に感心なものだ』主人 小寺氏は今更ながら、この青年の頼もしさに心を打たれた。
『これみんな、何をぼんやりしている。ちと秀蔵を見習え、判らんことがあったら秀蔵に教えて貰いなさい』
それが主人の口癖にさえなった。一にも二にも秀蔵である。小寺氏にとって秀蔵は全く信頼の出来る片腕であった。
明治の備後町 (出典 大阪市立図書館デジタルアーカイブ)
更に秀蔵の評判は店内ばかりでなく薬種問屋間の評判となり、どこへいっても「小寺さんところの秀蔵さん」といへば、よい方の例の引き合いに出された。
若い秀蔵が手本にされ、手本にされたい番頭達が叱られるのである。只さえ快く思っていない朋輩達は秀蔵が重用されるにつけ、事毎に反対して仕事の邪魔をするのであった。
これは若い秀蔵にとって針の筵(むしろ)に座る以上につらいことである。
しかし、彼は決して朋輩をうらむことはしなかった。
『人間は正直にせねばならぬ。誤って罪を着せられるような事があっても自分さえ正しければ何時か必ず分かる時が来る』
この母からの諭しを心の中に思い浮かべた。『母の言われたとおりだ』
彼は一人 夜具の衿に涙を隠しつつ、この母の教訓を玉条(ぎょくじょう)
として、敢然(かんぜん)として骨身惜しまず働きつづけたのである。
次回、丁稚の頃 その4 お楽しみに
【編集後記】
秀蔵が学んだ伏見町の薬学校は、道修町の隣接地域。
道修町は江戸時代から薬種の古い歴史があり、現在も多くの薬品会社の本社があります。そこで、大阪大学総合図書室に情報を提供して頂いて、道修町と薬学校の資料を掲載しました。
秀蔵が通った薬学校は、戦後再編され大阪大学薬学部の前身となったのが下記の年表にあります。
出典:『大阪大学総合学術博物館年報2008』
(大阪大学薬学部50周年記念出版編集委員会編 大阪とくすり改変)
明治政府が西洋医学を公的に取り入れたため、洋薬に対する薬業者の知識を深め薬剤師制度や近代薬事制度をつくる必要がありました。大阪では道修町を中心に1875年大阪司薬場の教官を招き、講習会を開いたり夜学校を設立するなどしました。
1886年売薬業者により、伏見町1丁目に「大阪薬学校」が設立されました。同年、薬種業者・製薬業者により道修町2丁目に「大阪薬舗学校」が開校しています。
出典 大阪大学総合学術博物館年報2008(協力 大阪大学総合図書室)
企画構成(矢竹考司 東京在住 坂越出身)